天下一の傾奇者(かぶきもの)前田慶次が、 『金の慶次』として帰ってきた!

前田慶次は実在した人物で、戦国の世を駆け抜けた武将のひとりだ。しかし、富や権力には全く関心がなく、時の天下人・秀吉にさえ媚を売らない自由人だったという。

 

人とは違う派手な格好を好み、その言動も世の常からしたら破天荒で異端。そのくせ情に厚く、漢(おとこ)気が強く、己の義と美意識のために命をも賭す。人は慶次を「傾奇者」と呼び、慶次も、それを楽しむかのように傾き通してみせた。ちなみに日本の伝統芸能である歌舞伎は、「傾く(かぶく)」の名詞化「傾き(かぶき)」が語源とされている。

では、実在した前田慶次とは、どんな人物だったのだろうか? 生誕年は定かではないが1540年前後。実父は、織田信長の重臣であった滝川一益の一族とされている。荒子城(名古屋市)の城主であった前田利久に養子として迎えられるも、その後、利久の弟・利家が家督となったことから城を出て浪人に。

 

諸説さまざまだが、浪人時代は京都で暮らしたとされ、公家や文人とも交流して書に親しみ、連歌や茶道を嗜んだとか。また武術では剣や槍、弓をはじめ武芸十八般に秀でていたという。やがて豊臣秀吉が天下を治め、前田利家が加賀藩主となると、慶次は利家の家臣として戻った。そこで数々の戦功を挙げるも、利家との折り合いは悪く、前田家を出奔。その際に、こんな言葉を残している。

 

「たとへ万戸候たりとも、心にまかせぬ事あれば匹夫に同じ、出奔せん」

 

訳すと、「多くの領地を治めていても、思い通りに生きられないなら(大名も)ただの男。ごめんこうむる」となる。──カッコイイね。こんなセリフ、一度でいいから言ってみたいもんだ。

 

『金の慶次』のラベルにあるのも慶次のセリフである。

 

「人は日に 米は三合 畳は一畳あれば十分」「そんなことより一献くれまいか?」。

 

こちらは「花の慶次─雲のかなたに─」からの抜粋で、秀吉から100万石出すから家臣になれと誘われた際の慶次の返答だ。またラベルの裏側には、このような名シーン8つが印刷されているのだ。

中身の焼酎は、前田慶次の輝くスピリットを表す黄金色の樽貯蔵麦焼酎。なんと14年物の超長期貯蔵原酒までブレンドしてしまったという傾奇ブレンドだ。田苑の特長である音楽仕込みの工程では、その仕上げに「花の慶次」のテーマ曲を聴かせて熟成させた。華やかな香り、力強い味わいがあり、それでいてまろやかな慶次らしい酒となっている。

 

室町幕府の衰退からはじまったとされる戦国時代は、信長や秀吉が天下人となっても各地で合戦が勃発していたが、1600年の関ヶ原合戦を経てようやく徳川家康によって平定されていった。合戦での武勇により、慶次には高禄での誘いも多かったというが、それらをすべて断り、最後は莫逆の友と呼ぶ直江兼続の主である上杉景勝のもと、米沢で余生を送った。

 

米沢図書館には、前田慶次の貴重な自筆本とされる『前田慶次道中日記』が保存されている。この日記には、1601年10月26日に京都・伏見を出発し、11月19日に山形・米沢に到着するまでの26日間のことが記されており、その旅路の様子や土地の逸話などと共に、慶次が詠んだ俳句や和歌、漢詩などが掲載されている。

 

米沢へ移ってからは、堂森の清水のほとりに庵を構え、詠花吟月を友とし、二度と傾くことはなかったという。晩年に慶次が記した『無苦庵記』には、悟りの境地に至ったかのような言葉が綴られている。

 

「そもそもこの無苦庵は孝を謹むべき親もなければ憐むべき子も無し」

 

「寝たき時は昼も寝、起きたき時は夜も起る」

 

「生きるだけ生きたらば、死ぬるでもあらうかとおもふ」

 

コミック「花の慶次─雲のかなたに─」では、琉球王国の首里城を舞台にしたストーリーが描かれています。世界遺産ともなったその首里城ですが、無念にも2019年10月の火災によって、ほぼ全焼してしまいました。田苑酒造では、首里城の復元・復興を願う思いから、『金の慶次』の売り上げの一部を首里城の復興支援のために那覇市に寄付します。

 


<参考文献・サイト>
・花の慶次─雲のかなたに─
原作/隆慶一郎 漫画/原哲夫 発行/集英社

・花の慶次公式サイト
http://www.hananokeiji.jp/

・(一社)米沢観光物産協会
http://www.yonezawa-naoe.com/mononohu/maeda_keiji.html